私は何に対して宗司さんに謝っているのだろう? そこには様々な思いが込められている事に私は気付く。 ───離婚届にサインをしたこと。 ───そして何も言わずに家を飛び出したこと。 ───私が至らないばかりに迷惑をかけたこと。 ───妊娠したこと。 ───そして妊娠している事をまだ伝えていないこと。 話したいことが洪水のように溢れ出る。 話したいことが津波のように押し寄せる。「宗司さん、聞いて欲しい。宗司さんと話がしたい。そして宗司さんに聞きたい。色々な事をいっぱい聞きたい。 私のことを好きですか? それとも嫌いですか? 私のどこがいけなかったの? 私はどうすればよかったの? どうして離婚届を私に突き付けたの? どうして彩寧と二人で歩いていたの? 私、妊娠しました。宗司さんの子供よ。私との間に子供ができてどうですか? 嬉しいですか? それとも───」 まだまだ聞きたいことが滔々と溢れたが、これ以上、私は言葉を続けることができなかった。 喉の奥に固いものが込み上げ、声が詰まったのだ。私はボロボロと涙を流して嗚咽した。 私は宗司さんの手を握る。 すると、宗司さんは私の手を握り返してくれた。 宗司さんに意識はない。まだ眠ったままだ。それでも宗司さんは確かに私の手を握り返してくれた。 それだけで十分だった。 私の様々な不安や疑念が急速に和らぐ。 そして強い考えが沸き上がる。 宗司さんになんと思われていようと、昨日誓った通り、私は私であるべきだわ。 そして私は強くなる。宗司さんにふさわしい妻になる為に。 宗司さんに認めてもらうんじゃない。私が宗司さんに認めさせるの。 そうでなければ本当の意味で宗司さんにふさわしい妻にはなれない。 私は涙を拭うと立ち上がり、業務に戻ることを決意する。 ここで宗司さんを心配して泣いていたって何も変わらない。 それならば、私は自分がやるべきこと、自分ができることをするべきだ
「充希、おはよう。来て早々に悪いけど、この書類をお願い」 母は、クリップボードにまとめられた書類の束を私に渡す。「昨晩、緊急搬送された男性の必要書類よ。緊急事案だから今すぐ処理をお願い。病室の番号はここに記載された通りよ」 母は書類の項目の中で、病室の番号が記載された箇所を指さす。「すぐに行って。そして患者さんの様子を見てきて」 母の言わんとしている事を私はすぐに理解した。 あくまで業務として周囲に迷惑をかけず、宗司さんに会えるよう仕向けてくれているのだ。「お母さん……」 私は感謝の気持ちで喉を詰まらせる。 しかし、ここで涙を流している場合ではない。 私はぐっと涙を飲み込んだ。「ありがとうございます。わかりました。すぐにこの業務にとりかかります」 そう言って母に頭を下げると、私は大急ぎで病室に向かう。 といっても、院内は緊急時以外、走ることは禁止されているのと、私はお腹に赤ちゃんがいるので、少々の駆け足は問題ないが、万が一、転んだりしてお腹を痛めてはいけないので、走らず、可能な限りの早歩きで病室に向かう。 宗司さんの病室は病棟の奥のようだ。 私は焦る気持ちを抑え、長い通路を進む。 しかし、病棟の廊下は長く、なかなか辿り着かない。 動悸が高まり、息が切れて苦しくなる。 私は努めて大きく深呼吸するように息を吸い、先を急いだ。 そしてようやく宗司さんの病室に辿り着く。 そこは数人の患者さんが一緒に入院する「大部屋」ではなく、患者さん一人の為の個室だった。 ドアの窓から中の様子を覗くと、そこには───。 ───いた! ───宗司さんだ! 病室のベッドに宗司さんがいた。 瞬間的に私の視界は涙で歪む。 私は飛び込むように病室に入った。 宗司さんに駆け寄ると、宗司さんは穏やかな寝息をたてて眠っていた。 久しぶりに宗司さんの顔を見られて私は歓喜に心身が高揚する。 しかし、その歓喜に身を委ねてばかりもいられない。 私はすぐに宗司さんの様子を確認する。 頬や腕に怪我を治療したガーゼや包帯が巻かれていたが、いずれも大きな怪我ではなさそうだ。 額に少し打撲した痕があったが、少しぶつけた程度の腫れだった。 車が爆発炎上するという大事故
いつも通り病院に出社した私は周囲の噂話にまみれる。「昨日の車の爆発炎上の事故、凄かったね」 「この病院の近くで、あんな事故が起こるなってびっくり」 「あの事故で怪我をした男性が、うちの病院に搬送されたそうよ」 「そうなの!? 確かその男性って大企業の社長さんよね?」 「警察の方も大勢来るでしょうから、今日はいつも以上に騒がしくなるかもね」 私は気が気ではなかったが、落ち着くよう自分に言い聞かせ、目の前の業務に集中した。 病院には大勢の患者さんが来院される。 その内、誰一人として重要でない人なんていない。 誰しもが誰かの大切な人で、私の取り扱う業務は、そうした人たちにとって重要な手続きや事務処理なのだ。 私が宗司さんを大切に思うように、来院者の皆さんも誰かを大切に思っている。 私の業務は、そうした方々の思いや期待が寄せられる業務なのだ。 たった一つの会計処理だって、決して疎かにすることはできない。 私は落ち着かない心を必死に抑え込み、目の前の業務に喰らいついた。「充希さん、目が赤い。───泣いてるの?」 私を気遣ってやって来たのは崚佑さんだった。 私は「え?」と思ったが、その瞬間、自分の目が涙でいっぱいだったことに気付いた。 慌ててハンカチで目頭を押さえる。「情緒が不安定。知らず知らずに涙が溢れる。妊婦さんによくあること。温かいお茶を飲むと気持ちが落ち着く。おすすめはルイボスティー」 崚佑さんは、私が妊婦特有の気持ちの浮き沈みが出ているのだと勘違いしたようだ。 矢継ぎ早にどうすれば気持ちが落ち着くかをあれこれアドバイスしてくれた。 私は、今、自分が涙を浮かべていたのは別の理由であるとは思いつつも、崚佑さんの気遣いに水を差すことはせず、言葉を受け入れた。 そうして私たちが会話をしている所に、母・碧が急ぎ足でやってきた。 私は母の姿を見て、思わず席を立ち上がった。
───翌朝、私は病院へ駆けつける。 ───そして真っ先に宗司さんの病室に向かった。 ───宗司さんの病室は病棟の奥だ。 ───私は自分が妊婦であることも忘れて病室を目指して走った。 ───しかし、病棟の廊下は長く、走っても走ってもなかなか辿り着かない。 ───ようやく病室に辿り着くと宗司さんがベッドに横たわっていた。 ───宗司さんの寝顔は綺麗で穏やかだった。 ───久しぶりに宗司さんの顔を見られて私は歓喜に心身が高揚する。 ───しかし、宗司さんに打ち覆いが掛けられようとしていた。 ───私は咄嗟に手を伸ばす。宗司さんに面布をしないで! ───しかし、その場にいた大勢の人にとめられる。 ───それどころか「無関係」「部外者」と罵られ、病室から追い出される。 ───部屋から乱暴に突き出され、倒れ込んだ私の背後でピシャリと扉が閉じられた。 ───振り向くと、そこにはもう扉はない。 ───私は必死に扉を探すが、冷たい壁が私の周囲を囲むだけだった。 ───さらにはその壁さえも暗闇に溶け込み、見えなくなっていく。 ───足元の床さえも、墨が広がるように闇が広がり、私は拠り所を失って暗闇に落下する。 その瞬間、私はビクリと身体を震わし、目を覚ました。 夢だとすぐに気付いた。 そして、夢でよかったと胸を撫でおろしたが、まさか今の夢は正夢ではないかと思い、慌ててスマホを手に取る。 時間を確認すると、いつも私がアラームをかけて起床している時刻より、三十分以上も早い時分だった。 私は母から連絡がないかと通知を確認する。 すると一件のメッセージが届いていた。 大急ぎで内容を確認すると、言葉短く、母からの説明があった。「宗司さんは大丈夫。充希はいつも通り病院に来なさい。後で説明します」 まず、宗司さんが無事とわかって私は全身の力が抜けるほど安堵する。 しかし、それと同時に様々なことが知りたくなった。 宗司さんは無事だというが、意識はあるのか? どこか怪我はしていないのか? 入院するのか? 病室はどこなのか? それとも退院するのか? 私は聞きたいことを送信しようとメッセージを打ち込み始めたが、すぐに思い留まる。 そうだ。私は昨日、誓ったんだ。 宗司さ
「もう子供じゃないから同じベッドで二人で寝るのはさすがに無理ね」 幸恵は「今日は充希から離れないわよ!」と私のベッドで一緒に寝ようと試みたが、二人でベッドに並ぶととても窮屈で、仕方なく幸恵は床にマットレスを敷いて、そこで寝ることにした。 幸恵は「お客さん」でもあったので、私がマットレスで寝ることを提案したが「妊婦さんを床で寝させて、自分はベッドで寝る産婦人科医なんてあり得ないわよ」と聞き入れなかった。「お母さんはもう病院についているよね。連絡がないってことは大丈夫ってことだよね?」 私は自分に言い聞かせるように呟いた。「もしくは、まだバタバタしていて連絡ができないか……」 そう言いかけて幸恵は慌てて言葉を飲み込んだ。「ごめん、充希。そうよね。大丈夫ってことよね」 幸恵に気を使わせてしまって私は申し訳なく思う。「まだ気持ちが焦っているみたい。宗司さんにふさわしい妻になるならこれじゃ駄目ね。心配しないで、どっしりと構えなくちゃ」 私は溜息をつく。「……駄目じゃないと思う。宗司にふさわしい妻になるっていうなら、宗司を心配して当然じゃない? だから心配はしていいと思う。但し、気が動転して取り乱したり、慌てて軽率な行動をするのは駄目で、そこは落ち着いて対処するのが宗司にふさわしい妻ってことじゃないかな」 幸恵の含蓄のある言葉に私は感動した。「ありがとう、幸恵。幸恵がいてくれて本当によかった」 私は親友の存在に、今まで以上に感謝の気持ちが湧いた。「何よ、あらたまって。そんなに真っ直ぐに言われると、くすぐったくなるわよ。 でも、まだまだこんなもんじゃないわよ。何せ私は、あと数カ月先に充希の双子を取り上げるんだから。それまでしっかり母子を見守らせていただきます」 幸恵にそう言われて私は、そうした未来が数カ月後に来ることを再認識する。 それと同時に、お腹の子供たちに意識が向いた。 子供たちのことを思うと不思議と気持ちが落ち着いた。 宗司さんのことはもちろん心配で心配で堪らないけど、そんな私の乱れた心を落ち着かせてくれた。 私は、お腹に宿る二つの命に、もう何度目かわからない心からの感謝をする。「ありがとう。本当にありがとう……」 私は心の中で何度もお礼を述べた。「さあ、充希。もう寝ましょう。今の私たちにできることはしっかり寝
母が身支度を整え、病院に急行しようとしている。 母の身支度は速い。それはいつ呼び出しがあっても、すぐ駆けつけられるように、常に意識と準備を怠らないからだ。「……私も一緒に行く」 母にすがるように私は呟く。 自分の声が、他人が喋っているように聞こえる。 もしくは、毛布をすっぽり被って、その中で喋っているような感覚。 ───私は気が動転している。 頭では理解できたが、この動揺にどう対処すればよいのか方法がわからなかった。 そんな私を母がしっかりと抱き締めてくれた。「充希、気をしっかり持ちなさい。落ち着いたら連絡するから、あなたは家にいるのよ」 抱き締められると頭の中の霧が急速に薄らいだ。 私は耳が聞こえるようになり、普段通り喋れるようになる。「でも───っ!」 咄嗟に私は母に食い下がろうとする。 家に留まるよう言われたが、居ても立ってもいられそうになかった。 しかし、それは幸恵に制された。「充希、お母さんのおっしゃる通りよ。家で待ちましょう。あなたが病院に行ったって、何もできないでしょ?」「でも、私は宗司さんの妻よ! 夫が事故に巻き込まれたのに病院に行ってはいけないの!?」 そう叫ぼうとしたが、私は叫べなかった。 叫ぼうとした瞬間、離婚届にサインをした記憶が鮮明に蘇ったからだ。 ───そうだ……。私は宗司さんの妻じゃない。もう……もう、私は赤の他人なんだ……。 私は幸恵にしがみつくと声をあげずに涙を零す。 そんな私を幸恵は優しく包むように抱き締めてくれた。「碧さん、私が充希と一緒にいます。今日は泊めていただいても宜しいでしょうか?」 幸恵の申し出を母は二つ返事で了承した。「もちろんよ。幸恵さん、ありがとう。幸恵さんが充希と一緒にいてくれるなら安心だわ。宜しくね」 それから母は、家を出る前に私に話しかける。「充希、辛いけど頑張るのよ。あなたは今日、誓ったわよね? 宗司さんにふさわしい妻になるって。充希ならできる。充希なら宗司さんにふさわしい妻になれる。お母さんはそう信じてる。だって充希はお母さんの娘なんだから」 母の言葉は胸にしみた。 母の深い愛情が感じられ、私は力を取り戻す。「わかった。家で待つ。でも、何かあったらすぐに連絡をお願い。 それか